鹿鳴館について コンセプト 初めていらっしゃる方へ system イベントカレンダー イベント報告 サロン日報 トップページへ

・・・・・・・・  序 文  ・・・・・・・・

嗜好ですから
「読書感想会個人的補足」 読書感想会などというものを、ここまで熱心に続けたマニアサロンがあったものだろうか。いや、マニアサロンではなく、ただのサロンや文学サークルでさえ、ここまで熱心に、これだけ長く続けたところは少ないことだろう。
 とってつけたような真似事で朗読だの、演劇だの、読書会だのとやるマニアサロンならいくらでもあろう。しかし、それを定期的に何年も継続したところがあるものだろうか。少なくとも筆者は知らない。不定期にそうしたイベントを行うことはかんたんなのだ。そうした真似事なら誰にもできるし、誰もがやっていることなのだ。しかし、サロンは本気である。
 一月に二度という定期的な継続こそが本気であることを証明している。
 そして、もうひとつ、本気であることは形として残されることによっても証明される。
 朗読会は鹿鳴館にはオリジナルの朗読劇やドラマリーディングというものがあるし、朗読用のオリジナル小説というのもあるので形として残っている。しかし、さすがに読書感想会は形として残らない。
 筆者は書評家でもなければ文学者でもないので、読書感想会の内容を公平に記して行く自信はない。本当はそうすべきなのだろうが、それは無理なので、せめて、筆者の個人的な感想、単純な好き嫌いを述べることによって、これを形に残そうかと思う。
 記録はもっとも鹿鳴館らしい行為なのだから。









・・・・  序 文 その2  ・・・・

 鹿鳴館サロンは下世話なSМというものを嫌って作られた。会社の愚痴、家族の話、そして、グルメと旅行自慢ぐらいしか話題のないようなところでするSМが嫌だったのだ。
  鹿鳴館サロンには、SМというものは、SとМとにかかわらず惨めなものだという意識があるからなのだ。スキーとギターとドライブとSМという並びにSМは入れない、と、鹿鳴館サロンは考えている。これがセックスとかスワッピングとか乱交ならいいのかもしれない。そうしたものはスポーツに似ているから趣味のひとつでいいのかもしれない。しかし、SМは違う。趣味や嗜好ではなく病理なのだ。
 病理は隠さなければならない。これも鹿鳴館サロンの独特の考えだが、これは少し前までなら、日本人の常識的な考えだったはずなのだ。しかし、最近は違ってきているようだ。病気を自慢する人も少なくないぐらいなのだから。しかし、本来なら、病人は隔離されたし、病人は惨めだったから、病気はできるかぎり隠したいものだったのだ。
 さて、ところが隠すというのは贅沢なことでもある。人にとっての贅沢はお金を隠すことだ。貧乏人でお金を隠せる人はいない。隠すお金があったら貧乏ではないからだ。
 病理を隠して、こっそりとそれを満足させることは、これは贅沢なことだった。つまりSМというのは、こっそりと贅沢に遊ぶところの性だと鹿鳴館サロンは考えているのだ。
 SМを下世話な遊びにしたのでは、それをするSもМもあまりにも惨めになるのだ。
 そんなことはないと考える人には鹿鳴館サロンのことは分からない。そこに共感する人はこの鹿鳴館サロンの二つのイベント「読書感想会」と「再・読書感想会」に出ていただきたい。
 文学を語れる人が女を縛ろうとすること、小説について熱く語った人がワイセツに性を晒そうとすること、そうしたことがどれほどエロティックなことか分かってもらえると思う。
 鹿鳴館サロンの読書感想会はSМを下世話なもの、品性下劣なものにしない、それだけのために存在するイベントなのだ。


桜庭 一樹
『桜庭 一樹』


(文藝春秋)

「没落貴族のような傘泥棒になりたい」

 サロンの感想会ということで、課題となる本は文庫本が原則となる。単行本をその都度買うのは、あまりにも参加者の負担が大きいからだ。同じ理由で、短編小説というのもある。読むのにも負担が大き過ぎないようにということなのだ。
  ところが例外もある。この本はおそらくサロンの感想会の最初の例外となったはずだ。
例外として、つまりはサロンの読書感想会のルールを破ってまで、 これを課題図書として推薦したのは筆者である。この小説が筆者にとって例外的な衝撃だったからだ。例外的な作品なら例外として扱ってもいいだろうという理論的でない理由により、筆者はこれを推薦した。
 さて、筆者の衝撃の理由をかんたんに述べておこう。例外として扱ったのだからその理由を述べる責任は当然のことながら筆者にある。
 まず、筆者は小説というのは人生を扱ったものでなければならない、と、そう考えている。そして、その人生は平凡であってはいけない、と、そうも考えている。平凡な人の人生はエッセイで書けばいいのだ。
 さらに筆者は小説というのは、あらゆるものが必然性のある心理描写になっていなければならない、と、そうも考えている。作中の天候、草花、車、街、建物、服の色など、そこに表現されたものは全て、何らかの必然性をもって描かれるべきなのだ、と、そうした考えなのだ。
 まだある。小説というものは表現の方法を楽しめなければならない、と、そうした考え方だ。
 この小説は、その全てにおいて完璧だった。筆者は冒頭の「傘泥棒」でやられてしまった。秒殺である。そして、その後のすべての表現にやられてしまう。雨、傘、流氷、全てが登場人物の心理描写のために揃えられている。見事だった。現代はアウトローを描くのには難しい時代だ。アウトローと言われる人が少ないからだ。しかし、この小説は現代のアウトローを描いている。この題材の選び方も見事だ。
 内容には問題が多い。リアリティというならいささか弱い。矛盾も多い。しかし、そんなことどうでもいいじゃないか、と、そう思いたくなる小説でもあるのだ。
単行本を押して、筆者がこれを課題図書に推薦したのは、そうした理由だった。好きか嫌いか、当然、筆者はこの小説が好きである。

村上 龍
『トパーズ』
 より「トバーズ」

(角川文庫)

「期待が大き過ぎて嫌いになったものもある」

 読書感想会は当然のことながら筆者の好みの小説を並べたものではないし、筆者が何かの意図を持ってセレクトしているわけでもない。ゆえに、感想会で読まれた小説の中にも筆者の好き嫌いはある。ここで、感想とか文学論をやるというわけにもいかないので、単純に好き嫌いを述べよう。
  そして、嫌いという意味でいうなら、やはり、この小説が筆頭に上げられる。
「トパーズ」である。
  この小説が嫌いな理由ははっきりしている。それはこの作家が異常性愛の世界を描くなら、もっと別の方法があったと思うからなのだ。これではポルノ小説と変わらない。ポルノ小説なら筆者たち三文作家に任せてもらいたかった。三文作家として立派に読者を射精させてみせる。
 この作家に書いてもらかったのは、もっと、別のものだった。そして、この作家なら、この世界を扱って、もっと別のものが書けたはずなのだ。しかし、書かなかった。書かなかったのは、この作家には、この世界をそこまで深く覗きたいというほどの興味がなかったからなのだと思う。そこが嫌いなのだ。
 実際、この作家は影響力があるだけに、単純な性異常ごっこのマニアもどきが業界に増えてしまうことになる。たいした病理も興味もないままにブームだからとSMの世界に入って来て、しかも、そうした人たちには、本当のマニアの持つ対人の苦手さみたいなものがないから、すぐに業界に君臨してしまう。あたかも自分が三十年もの間、マニアとして悩み続けたかのような顔をしてマニア世界の ことを語り、その世界でリーダーシップをとるのだ。
 業界内のこのブームの火付け役となったこの小説が筆者は嫌いなのだ。
 この意見を証明するというわけでもないが、事実、この作家は、これ以後、このテーマを熱心に扱った作品を書くことはなかったように思う。他のテーマにおいてはいい作品を書くのに、このテーマでは書かない。その程度の興味だったからなのだ、と、筆者はそう思っている。まあ、官能作家ではないのだから当然と言えば当然なのだが。

森 茉莉
『貧乏サヴァラン』
 より「エロティシズムと魔と薔薇」

(ちくま文庫)

「これが哲学でなければ哲学なんていらない」

 読書感想会というものは小説愛好会ではない。本当ならエッセイも論文もドキュメントも課題としてあるべきなのだと思っている。しかし、実際には小説中心となってしまっている。そんな中、この作品はエッセイであるにもかかわらず珍しく課題として取り上げられた。珍しいが例外ではない。
  しかし、鹿鳴館の感想会であるわけなので、広義な意味においてでも官能的作品ではあるべきなのだろう。その意味では、このエッセイが選ばれたことは例外的である。
 エッセイは本来、この感想会で選ばれていいものなので、その理由について書く必要はないだろう。問題は、どうしてこのエッセイが官能として選ばれたのかというほうだ。
筆者は官能とは妄想の原点でなければならないと考えている。つまり、読者を性的に刺激し興奮させるものは官能とは言わず、それは単純にポルノと筆者は読んでいる。また、三文小説とかワンコイン小説などという分け方も鹿鳴館にはある。
  ポルノと官能の違いをここで述べるのはお門違いなので、話をもどそう。
 このエッセイは、妄想することの哲学を語っているのだ。妄想というものの必要性、悦楽性について読者に教え、妄想の遊び方、学び方、生活における利用の仕方までをていねいに教えているのだ。
妄想のないところに官能はない。ゆえにこのエッセイは官能の原点、つまり、官能の原点である妄想の原点なのだから、それは官能の原点であるという哲学的な屁理屈から、このエッセイはサロンの感想会に課題として採用されたのである。
  そこまで強引に採用したのだから、この作品を筆者が嫌いはわけがない。
  タイトルだけでも、この作品は作品としての価値が十分にあるのだから。


吉行 淳之介
『原色の街・驟雨』
 より「驟雨」

(新潮文庫)

「美しくて最低の男になりたかった」

 好きか嫌いかと問われれば無条件に好きだと言う。ただし、この小説の優れたところを説明しろと言われたら迷う。とりあえず作者の人間性を言うならだめなのだろうし、たいていの主人公は作者と同じなのでだめなのだ。だめというのも、いわゆる悪人とか性悪とかというのではなく、どちらかと言えば劣等という意味においてだめなのである。
筆者は文章をしばしば料理に喩えるが、この小説は喩えるならもんじゃ焼き、たこ焼だろう。高級な味ではないし、おしゃれというわけでもない。しかし、それじゃあ、どこの店で食べても同じ駄菓子かというとそうでもない。お好み焼きやたこ焼というものには上手い不味いが相当極端にある。それがフレンチや会席料理でないだけに逆に上手いと不味いが極端だったりするのだ。
この人の表現はお好み焼き同様に日本的だ。日本人でなければ共感できないかもしれない美というものがある。日本舞踊やお茶に通じる美がある。見た目のオリエンタルに感動することは外国人にもできるかもしれないが、真髄の美は外国人には分からないだろうという気がする。そこに心地良さがある。
そんな日本的な美で日本のだめ男が語られるのだ。美しいだけに悲しいまでに退廃的だ。
それは、まさに落ち行く葉を雨と言うような美しさであり悲しさなのだ。
筆者は思う。この小説を好きでよかったと。そして、この作者を好きでよかったと。

谷崎 潤一郎
『春琴抄』


(新潮文庫)

「恋愛小説なのか師弟愛小説なのか」

 この小説はしばしば恋愛として解釈されるようだ。実際、読書感想会でも、恋愛のかたちとしての話題が多かった。しかし、筆者は恋愛というかたちが見えない。この小説は筆者にとっては師弟小説なのだ。
主人公は盲目である。弟子は師匠についたら盲目に従え、と、筆者はそう教わった。弟子は考えてはいけない。考えるのは師匠になってからでいい、弟子はただ盲目的に師匠の後を追うのだ、と、筆者は、そうして稽古させられた。筆者にとってそれは古武術というものだった。
筆者はこの小説を読んだときに、なるほど、それで主人公が盲目なのか、と、そう思ったのだ。
男女の恋愛ならそこには生き甲斐というものがあるだろう。しかし、師弟の盲目的な愛の中には生き甲斐などない、そこにあるものは、ただ、ただ、死に甲斐だけなのだ。
主人公のもう一人は自らも盲目となる。見えるから従えないなら見えなくしてしまえばいいのだ。どうして見えなくしなければならないのか。それは従うことが理不尽だからなのだ。つまり師は全てに正しいわけではないということなのだ。それでも従う。それが師弟という関係なのだ。そして、そこにこそ死んでもいいとまで人に思わせる愛があるのだと、この小説はそう言っているように筆者には思えた。
好きか嫌いかと言えば嫌いである。筆者もいい年齢だが、これでもその昔は現代っ子と言われたこともある。古武術の理論には従えず、キックボクシングというきわめて理論的なゲームに熱中させられてしまった過去がある。だから、この小説は嫌いなのだ。嫌悪するほど羨ましいのだから。

志賀 直哉
『清兵衛と瓢箪・網走まで』
 より「網走まで」

(新潮文庫)

「妄想の楽しさは読者に譲られているのだ」

 筆者は官能小説には二種類あると考えている。ひとつは読みながらオナニーできるもの。筆者はこれをしばしば三文ポルノ小説と呼んでいる。筆者が生業として書いていたのはこの分野である。
もうひとつは、その小説からじっくりと思考を遊ばせて、気がつくと妄想の中でオナニーしているというもの。今のようにオナニーのための便利な情報に溢れていない時代には、新聞の三面記事でさえオナニーのネタになった。新聞記事も文学作品も文章を書く人としては一流なので、これは三文という安い値段では売られることがない。
そんな文学官能小説の代表に筆者はこの作品を上げている。
サロンの読書感想会のときにはこの小説の何が官能なのかと批判された。確かに、女は服を脱がない。主には人妻と男しか出て来ない小説なのに、この二人は手も握らない。そもそも恋愛もしない。
そんなまったくの他人が性を共有するのだと筆者はそのように想像している。男は女の子供から女自身を空想する。子供のいる女はセックスした女だからなのだ。女もそれを知っているから子供を奥ゆかしく男から遠ざけようとする。この互いの遠慮が性なのだ。
しかも、この二人は列車で座席を共有する。列車というのは、何ともエロティックではないだろうか。一つ屋根の下で他人の男女が寝るのだ。その上、ひとつひとつ駅に停まりながら果てしない目的地に向かう乗り物なのだから、これなどは人生そのものではないだろうか。
女が向かうのは網走である。網走刑務所のある網走なのだ。これに官能を感じないでどうしてマニアと言えようか。
女は男に葉書を出してくれと頼む。信用したのである。一度は一つ屋根の下で暮らした男を信用したのである。数時間の生活でしかないのに信用したのだ。ここに女の官能的な人生の全てがあるのである。
筆者は女の葉書の宛先と、そこに書かれた内容だけでも何度もオナニーした。かんたんな答えは親。しかし、別の答えによっては官能世界はいくらでも広がるのだ。
名短編とは、読み手に長編を書かせる小説のことだと筆者は思うし、その意味において、まさにこれは名短編官能小説なのである。
これは筆者が人生でもっとも愛した作品かもしれない。


小池 真理子
『ひぐらし荘の女主人』
 より「彼なりの美学」

(集英社文庫)

「好きだが嫌いはまさにアブノーマル」

 筆者はアブノーマルというのは、その言葉の通り、人として、あるいは動物としての異常行動だと考えている。ゆえに、アブノーマルというものは病的であり、反社会的であり、醜いものだと考えている。
 しかし、どんなものにも例外というものがある。
良心的な狂気とか、紳士的な暴力とか、幸福な被害者とか、積極的な服従というようなものもある。
 この作品はアブノーマルを描いた作品である。この作品は「オシャレな監禁」である。監禁についてグロテスクに書くことなら、まあ、たいていの作家ならできることだろう。しかし、監禁をオシャレに書いてしまうことを平気でできる作家はこの人ぐらいかもしれない。
 偏執的な傲慢を美学というオブラートにくるんで飲ませてくれる優しい毒薬。それがこの作品なのだ。毒薬なので、あまり飲みたいものではない。あまり飲みたくない毒薬という意味において、筆者はこの作品は嫌いである。ただし、この作者は手放しで大好きなのである。

 

三島由 紀夫
『金閣寺』


(新潮文庫)

「官能に脅迫されたような気分」

 官能が突きつけられた。この作品を読んだとき、筆者は確かにそう感じた。作者の官能を見せられたとか、官能というものに対する考えを読まされたとか、そうしたものではなく、官能という刃を喉元に突きつけられた、と、そう感じたのである。
 それは、この作品の後の作者の人生を考えるなら、まさに重く大きく恐ろしい刃だった。
 人は官能という世界をなくして生きていられない。しかし、そうした言い方をするときの官能とは性の営みなどとは違う、もっと、自らを捨てさせるような偏執的な思いのことなのである。
 この作品にあったのは、まさにそうした官能の象徴であった。金閣寺は形あるものである。しかし、その形のない象徴としての金閣寺もある。性も同じなのではないだろうか。肉体の営みであり同時に精神の象徴なのかもしれない。
 官能を突きつけられて筆者は苦しんだ。恐怖に身が縮んだ。
 嫌いな作品である。二度と読みたくない作品である。思えばこの人の作品は全てそうだ。二度と読みたくない。そして、何度も考えさせられてしまう。嫌な作家であり、嫌な作品である。できれば考えずに、触れずに、読まずに、ただ、平凡に生きていたかった。しかし、読んでしまった。後悔しても、その事実はぬぐえない。生涯 この作品を持って生きるしかなくなった。そうした意味においても本当に嫌な作品である。
 ただし、この後悔を持つことを筆者は薦める。平凡な人生には、重く暗く悔いのある読書も必要なのだから。

江戸川 乱歩
『パノラマ島奇談』


(江戸川乱歩文庫)

「理屈を超越されたら逆らえない」

 好き嫌いを表現するのに、これほど難しい作家はいないし、これほど難しい作品はない。好きだったというなら、これほど好きな作品はなかったし、筆者にとってこの作品は十分に官能的だった。この作品をモチーフとしていくつもの妄想を作ったものだ。
 おそらくこの作家の書くものは妄想なのだ。娯楽性の高い妄想なのだ。それならば単純に楽しめばいいのかもしれない。深く考えたりしないことも人には必要なことだ。
 反戦思想が強いからとハリウッドの戦争映画が楽しめないというものではない。あれはあれで痛快娯楽映画と割り切れば楽しめるものなのだ。
 同じようにこの小説も痛快娯楽妄想と割り切って楽しめばいいのだ。他人の夢の話に辻褄が合っていないと反論する人がいないように、こうした作品に辻褄だとか理念とか小説のルールなんてものを求めるのが間違いなのかもしれない。いや、そうしたことを求めようとする行為はむしろ愚かしい行為なのではないだろうか。
 小説としては嫌いである。官能としてはもの足りない。しかし、妄想の原点としては極めて優れたものだと思う。そうした意味ではこの作品もこの作家も好きなのだと思う。
 難しい。そういえば筆者は宝石には興味がないが原石、巨石は好きなのだ。ゆえに石は好きか嫌いかと質問されると答えに悩むことがある。似ているかもしれない。


アナイス・ニン
『小鳥たち』
 より「小鳥たち」

(新潮文庫)

「一流の作家が書いた超一流の三文ポルノ」

 筆者が好きな翻訳家であり詩人である矢川澄子の翻訳で、三文ポルノ小説が出版されたのだ。それだけでも驚愕のことだ。アナイス・ニンは作家としても、一人の女としても魅力的だった。その彼女がどうして三文ポルノなど書いたのか、その理由もシャレている。
  その理由についてはここでは触れずにおこう。それが親切というものだ。
  その一流の作家が事情によって書いた三文ポルノ小説を一流の詩人が翻訳したのだ。翻訳には詩のリズムがある。とにかく美しい。まるでフランスの恋愛小説のような繊細さでエロが語られるのだ。爽やかな風の吹く公園で鳥に餌をやるかのように露出男がペニスを露出するのだ。
  この不自然極まりない小説がシュールレアリスティックでなくて何だというのだろうか。
『O嬢の物語』『イマージュ』『若きドンジャンの手柄話』『女教師』『眼球譚』と、名作を生むフランス闇文学に並べておきたい名作。好きか嫌いかを筆者に尋ねるのは無意味だ。
  この本が絶版状態にあるのは許せない。何なら原書まで売るべきだと思うぐらいなのだから。

萩尾 望都
『訪問者』


(小学館文庫)

「官能の原点に帰ろうとするなら」

 数十年以上前。この本を書店で見かけて筆者は衝撃を受けた。いったい作家というものは自分が書いた著作にどれほどのこだわりを持っているのかと驚いたのだ。正直、筆者はそれまでこの作家が好きではなかった。今ならボーイズラブというジャンルも理解できるが、あの頃には分からなかった。普通に女に飢えていた筆者には、男になど性を向ける余裕がなかったのだろう。ゆえに『トーマの心臓』は、筆者には分かり難い作品でしかなかった。ただ、それを発表し、読者たちがそのことを忘れた数年後にその作品の前提となるようなことを書くなどということが行われると、これには心を奪われたのだ。そんなことがやれるものだろうかという疑問があった。いや、その当時にはやれるかどうかではなく、やるものだろうかという疑問があったのだ。
 書籍を購入し、少し大人になった筆者は久しぶりに少女マンガを読んだ。熱中した。涙したようにも思う。そして熱狂した。筆者は会う人ごとにこの作品の衝撃を語った。その後、同じ本は数度買った。そして、読書感想会のために、また買った。今度は文庫で買ったのだった。やはり泣いた。
 愛情は全て屈折している。それがこの作品のテーマなのだという話は、しかし、誰にも理解されなかった。今も昔も。語りたい。この作品については、まだまだ語りたい。

大江 健三郎
『死者の奢り・飼育』
 より「人間の羊」


(新潮文庫)

「吐き気がするほど嫌いで、しかし大切な作品」

 読書というものは食事に似ている。何も食べなければ栄養失調になる。だが、食べればいいというものでもない。偏食は肥満の原因になる。偏った知識を身につけた醜い知識メタボは少なくない。
 それがゆえに、読書も好き嫌いなく読まなければならない。好きなものばかり偏って読んでいていも栄養にならない。
 ハンバーガーは好きだけど野菜は嫌いという子供がいるが、その意味でいうなら、この小説はまさに野菜である。食べなければいけないと分かっているし、こちらは大人なので野菜も食べれば食べられないことはない。それなりにだが野菜の美味しさも分からなくもない。ところが、好んでまで野菜を食べることはない。ついついハンバーガを食べて、ほとんど肉と油でわずかにサンドされた葉っぱを野菜と言い張って満足してしまう。
 決して読み難い小説ではない。優しい文体だし、誰にでも分かりやすい親切なストーリー展開である。
 小説という作法をきっちりと守っているので、読みながら思考の道に迷うことはない。
  それでいて、こんなに嫌な小説はない、吐き気がする、というぐらい嫌悪させる。当然だが筆者も大嫌いであり、一人暮らしなら口にしない野菜の酢の物みたいなもので、積極的には読みたくない類のものだ。
 しかし、読んだことは後悔しないし、読んだことを誇りに思い、それについて考えたり話し合ったことを有意義だったと思うこともできる。素敵な小説なのだ。しかし、嫌いな小説なのだ。


川端 康成
『山の音』


(新潮文庫)

「読書感想会はやっぱり面白い」

「あの戦争で死ななかったラッキーな人たちの物語りなんだ」
 読書感想会は面白い。筆者なら書店でそっと書棚に戻しただろう本を読まされるのが面白い。筆者には思いもつかなかった視点で本を読む人がいるのが面白い。とことん対立して、無駄な時間を過ごせるのが面白い。筆者が嫌いなものを好きだという人が面白い。いい大人がたかだか小説のことで熱くなるのが面白い。
 そして、ときどき、驚くべき発言を聞けるのは、さらに面白いのだ。
 この作品は筆者には暗い作品だった。報われない愛、報われてしまったのでは不幸になる愛、報われない人生。悲惨なのではなく、ただ、報われないだけの人生。ほのぼのとした幸福ではなく、ゆるやかな不幸、と、筆者はそう感じた。真綿で首を絞めるという言葉があるが、いっそ殺してくれと思う人生の苦汁を舐める思いがした。しかし、そんな人生だって、そこにある本当の苦痛よりは幸運なのかもしれないし、そこにある本当の孤独よりは幸運なのかもしれないではないか。
 不幸に共感し、人生にはこんな苦悩もあるのだというのを探すことばかりが読書の方法ではない。
 こんな結論は筆者が一人でどれほど読書をしたとしても思い至るところではなかっただろう。そんなところに思い至れるので読書感想会はやっぱり面白い。

林 真理子
『嫉妬』
 より「お夏」


(ポプラ文庫)

「毒を楽しむ自由が大人にはあるのだ」

 この作家の作品について語りたいことはたくさんあった。女というものを描かせたら、この作家ほど鋭い人はなかなかいない。グルメ雑誌なのに中華屋のゴミ箱の中から描き出すような人なのだ。ガスレンジの下とか冷蔵庫の裏を描いてしまうような人なのだ。
 しかし、官能かと言えば、この作家はあまりに官能的でない。深さの方向が違うのだ。抉る場所が違うのだ。
 ゆえに、筆者はこの文体と方法論で官能小説を誰か書いてくれないものかと常々考えていた。
 女が女を抉るような官能小説を書いてほしいと思っていたのだ。それがゆえに、この作家の作品は何度も感想会で取り上げたいと思っている。
  小説というものは、心地の酔い暇つぶしなどではないのだ。毒を飲んで死なない程度にその刺激を楽しむ、そんなものなのだ。毒なら飲まないほうがいいと言う人には小説は楽しめない。そうした人は絵本童話でも読んでいればいいのだ。お酒だって煙草だってコーヒーだって身体には少しばかり毒なのだ。毒の刺激が大人には必要なのだ。
 もちろん、この人の毒は猛毒ではない。飲み過ぎたところで死にはしない、せいぜいが健康を害する程度、だからいいのだ。その程度の毒が楽しめなければ小説など読まないほうがいい。そもそも、大人になどならないほうがいい。

西 加奈子
『窓の魚』


(新潮文庫)

「これほどのめりこまされる作品も珍しい」

 これほどエロティックでこれほど不思議で、そして、ファンタジックな小説が他にあるだろうか。
 この夜の読書感想会は不思議な盛り上がりを見せていた。作者の思いとか、伝えたいこと、あるいは小説の技法とか文体論のような話にはならなかった。
 ただ、ただ、誰もが小説の中に入り込んでしまって、あたかもそこにいる登場人物たちの一人にでもなったかのような気分で主人公たちの過去や性癖や、そして、事件について語り合っていた。これがのめり込むということなのかもしれない。これが小説に耽るということなのかもしれない。
 この作家は無責任だ。伏線を投げ散らかす。まるで駄々っ子が遊んだ部屋の中のような小説の書き方をする。用心しないと尖った積み木を踏んだり、ままごとのプラスティックの茶碗を割ったりしてしまう。ブリキのミニカーを踏んでケガをすることだってある。それでも、その部屋に入り、そこに駄々っ子の遊んだ痕跡を見るのは楽しいものなのだ。
 ままごとがあり、宝隠しごっこがあり、誘拐されたバンビ物語があったかもしれないことを注意深く推理して行くことは楽しいものなのである。
 こんな小説を筆者もエロで書いてみたかった。乱雑に散らかった楽しさ、大人に理屈を忘れさせる楽しさ、そんなものを筆者も作ってみたかった。
 ところで、この作家、本当にマニアなのではないだろうか、それは筆者の願望による思い込みなのだろうか。


未定
『未定』


(未定)

「未定」

未定

未定
『未定』


(未定)

「未定」

未定

未定
『未定』


(未定)

「未定」

未定