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官能文学辞典

窓と灯り(その2)

 駅前のターミナルから大通りと平行に走っている一方通行の細い道に出ると、すぐに古びた定食屋がある。美味しくはないが安くて量が多かった。母親に叱れて泣く子供の横で美味くもないサバの煮込みを食べた。生姜焼きを食べていたときには隣の席で別れ話をする若い男女がいた。懐かしいその店のテントは相変わらず薄汚れた緑だった。
  お客がいるのを見たことのない文房具屋の横の路地を入ると工場があり、その工場の庭ともただの空き地とも分からないスペースを横切ると私の住んでいたアパートがあるはずだった。
  ところが、文房具屋が見つからなかった。何かを勘違いしているのか、私は定食屋までもどり、路地を変えてみた。しかし、その私がここかもしれないと変えた道にはあまり記憶がなかった。思えば、そこに住んでいた頃には、あまり街を歩かなかったのだ。駅から自宅までは決まった道ばかり歩いていた。それゆえに一本路地が違うと、もうそこに見る風景には、ほとんど記憶がなかったのだ。
  定食屋には何度か立ち寄ったので記憶が確かだった。しかし、定食屋に寄るルートと直接自宅に帰るルートは違っていたかもしれないのだ。私は駅までもどってやり直した。
  その間、彼女は黙って私の隣を歩いていた。
  私はイライラとしていた。このままではまるで自分が話の合わない彼女に対して嘘の話をしたように思われる。一年近く前の話だった。街は変わるのだろう。文房具屋はつぶれたのかもしれない。もともとお客のいるのを見たことのないような店だ、つぶれていてもおかしくなかった。しかし、その程度の変化で自分の家が分からなくなるものだろうか。
  駅前にもどって私たちはコーヒーを飲んだ。駅前のハンバーガー屋は相変わらず賑わっていた。かつてこの駅を利用していたときにも何度となく、この店でコーヒーを飲み、その頃から、この店だけは賑わっていたのだ。しかし、この街は、この賑わいが路地を一本隔てただけで閑散としてしまうのだった。
  彼女には怒っている様子はなかった。訳の分からない話をされて楽しくもない街を引き回されたのである。もう少し怒ってもいいと思うのだが、まったくそんな様子はなかった。だからといって、散歩を楽しんでいるという様子でもなかった。
  私はコーヒーを飲みながら、太ももを摩った。歩き慣れていないからなのだろう、太ももの筋肉はすでにパンパンに張っていた。彼女はぼんやりとカウンターの向こうのメニューを眺めている。何か食べるかと尋ねたが首を横に振るだけで、それには答えなかった。そして、私が諦めようか、と、言うと、彼女はそれにははっきりと、もう一度だけ探そうよ、と、言った。
  外に出ると、すっかり陽が落ちていた。定食屋のガラス戸からもぼんやりと黄色い光が漏れている。少し歩くと、シャッターの下りた店があった。シャッターの上のテントには擦れた文字で文具とあった。
「ここだ、どうして分からなかったんだろう」
  私の記憶はその店を見つけたことによって蘇ってきた。工場はこの先の小さな公園を横切った向こうだったんだ。小走りに私はそこに向かった。彼女は私の後を追うという感じではないが、しかし、ゆっくりとついて来ていた。

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